2020/09/09

書きたいことがなくてもとりあえず書こう。

最近は語学の勉強ばかりしている。あと本を読むようになった。しかし、内容があまり頭に入らない。なぜならパソコンの近くで読んでいるのでついついパソコンに目が向いてしまうからだ。

この半年、時間はたくさんあるもののやるべきことが多すぎて何から手を付けていいのかわからない状況に陥っている。とりあえずアウトプットを目的として標準に据えて考えれば。おのずと今やることも定まってくるのではないかと考えた。アウトプット基準に考えれば数ある選択肢も狭まってくるだろうという意図だ。乱文失礼。

 

数学が苦手であるので正しいかどうかわからない、と前置きをした上で述べると、手段と目的を数学で例えて語ることができるのではないかということに気がついた。XとYにという2つの代数があり、Xが目的、Yが手段とする。この2つの代数は関連があり、Xの値が定まる時、自ずとYの値が定まる仕組みになっている。つまり、Xの値がわからないのにYの値を考えても答えを出すことは難しいということになる。これを手段と目的についての話に換えて述べると、目的がわからないもしくは不明瞭なのに、手段についてどれが良いのか考えてもどれが良いのか中々わからないということだ。目的を具体的にすればするほど、より具体的にそれを達成するための手段を見つけることができるはずだ。また、目的の更に上位に位置する目的の存在も忘れてはならない。人生の目的とも言うことができる。この存在について念頭に置きながら、手段と目的について考えるといいだろう。この最上位に位置する人生の目的とはなにか?ということについては、その答えに対して科学的な根拠付けをすることはできない。最終的には個人の考え、解釈に帰結するだろう。とはいってもそんな強固な考えなど持っていない人は、とりあえずとして一時的に「幸せになる」という目的を代入すればいいと思う。では、幸せとはなにかという疑問が自然と湧き上がってくるが、それに関しては、科学的裏付けが可能である「快感」というものを「幸せ」に代入すればいいのではないか。もちろん、それを追求するために何をしてもいいというわけではなくて制限付き、条件付きになるが。その制限とはなにかということに関しては今はもう頭が回らない。

 

・天井から高く吊り下げられたバナナを猿が手に入れようとする場面において考えられること

①いつか手に届くと信じて飛び続ける

②工夫する(足場を探すなど、手段について考える)

③工夫する(目標自体を軌道修正する)

④中断する

 

2020/06/28

・人と話すときに、みんな知っているけれども日常生活で基本発することのない言葉をサラッと使うと、ウケるかもしれない。

・人を笑わせるためには言語的表現力が必要だ。表現力とは簡単に言うと、言い換える能力、言いたいことを婉曲的に言う能力のことだと考えている。そのためには類義語や、認知度が高いものの日常会話で口にのぼることのない単語に対する豊かな知識がほしいことろだ。

・外国語学習は手段であって目的ではない。私にとっては外国語は、自分にとって興味のあるコンテンツを楽しむための道具だ。網羅的な知識なんて必要ない。自分にとって興味のある事柄にまつわる単語を学べばいいだけだ。

「そんな勉強法は本当にその言語を理解することはできない」という人もいるかも知れないが、外国語を「本当に」とか、「真に」理解することなんてネイティブでも出来ないのだから、到底出来ないものだと考えたほうがいい。検定なんて学習者間でのレベルの優劣をつけるための道具であって、そのため難易度が高い級になればなるほど実践的な問題は出されなくなってくる傾向にある。

「私にはその言語を使って何かしたいことがないです。そもそもその国の文化についてすらよく知りません」という人もいるかもしれない。では、逆にこう考えてみよう。将来興味関心が持てるような物事、楽しい出来事、人たちに出会うために語学勉強をするのだと。少なくとも、ただ学校から与えられたカリキュラムに従って時間がすぎるのを待つよりは、有意義な時間を過ごせるのではないか。

「人生に無駄なことは何ひとつもない」という詭弁

「人生に無駄なことは何ひとつない」という言葉がある。一見、とてもありがたい言葉に見えるが、他人に自分の都合を押し付けるとき、自分の人生を無理に肯定するときに限って使われがちな、現状としては中身のない美辞麗句になっているというのが現状だ。だからといって、反対に「人生は無駄なことしかない」という言葉にも同意できず、「人生に無駄なことは何ひとつない」と「人生は無駄なことしかない」という言葉はその中身の無さにおいては根本的に同じだ。

「無駄」という言葉は非常的に抽象的で、そして主観的な判断に基づいく言葉であるということを理解しておかなければならない。いくらでもその人によって拡大解釈、拡張解釈、はたまた縮小解釈できる。つまり、どうとでも言える、何にでも当てはめることができる言葉である。もちろん反証可能性を持っていない。「人生は無駄なことなんて何ひとつない」。大層な言葉であるが、「無駄」の定義をどのようにでも解釈可能であり、よってどうとでも言えるというで、内容が空虚でナンセンスな詭弁である。例えば「社会は均整が取れている一方で非合理に満ちている」という言葉と同じように。

「無駄」という言葉の解釈をどのようにするのかは個々人の自由であるが、それを他人に無理やり押し付けるのは横暴ではないか。「無駄」という解釈を決めるにあたっては、まずはじめに目的を定めなければならない。その目的を明確にし、他者と共有するが他者との「無駄」という言葉の定義についての有意義な折衝を始めることに役立つのではないか。

日本語ロックや日本語ラップの文化的正当性を反商業主義、反社会性、反体制性に求めることについての限界

ラッパーが大麻やドラッグ関連で逮捕されたことに関連して。

例えば日本語ロックの話をすると、当初舶来品としてありがたがられていた英米ロックのロックから影響されて確か60年代あたりから日本語でロックをするようになったが、それに対して日本語でロックをしたって真似事に過ぎないという意見があった。それらの意見を踏まえながら日本語ロックに取り組んでいた人々は自分たちの音楽の文化的正当性を確立するために英米のロックに日本の要素(それは往々にして白人の目を通したエキゾチックな日本観を内面化した)を加えるといった試行錯誤があった。またそれ以外にも、日本のポピュラー音楽であった歌謡曲と差別化をするために、商業路線を忌避した。また一方で英米のロックの特徴である反体制性を受け継いでいることを証明するために日本のロックも反体制という姿勢を試験勉強に真面目に取り組む秀才のように愚直に模倣した。

しかしそのような姿勢にはいくらかの問題点があった。本場では比較的バカな若者たちから熱心に支持されたロックも日本では「ありがたい海外からの舶来品」として受容されたということだ。当然、ロックにいち早くアクセスできるのは経済的に裕福でいくらか英語を理解することができるエスタブリッシュメントの子息が多かった。当初日本語ロックに携わっていた若者たちはそのような社会的に上流の階層に属している場合が多かったということだ。

また、自らの音楽の正当性を確立するために反体制アピールを反商業アピールすることで起きる弊害もあった。それは下方向への競争が始まるということだ。「俺のほうがマイナーである」、「俺のほうが無茶をした」、「俺のほうが社会的に苦労した」というような武勇伝エピソード合戦、出自の恵まれていないエピソード合戦という上方向ではなく下方向に向かっていく競争は際限がない。下には下がいる。また、サバルタンは語ることができないからサバルタンなのだ。表舞台に立って自らの体験を語るつらつらと語るミュージシャンの姿は結果から逆算すると、それでも恵まれている人、勝者扱いされる運命にある。そんな際限のない下方向へのマウント合戦の勝者が最終的に行き着く先には破滅しかない。

話を戻そう。日本語ラップはどうか?日本語ロックと同様、日本語ラップにおける先駆者は経済的に豊かな人間であった。自分たちの音楽の正当性を確保するため、ギャングスタ・ラップを日本に置き換え土着化しようと取り組んだ人達もいた。(書き途中)

2020/05/03 具体と抽象について、オマージュという言葉に対する誤解について

・具体と抽象について

「王道もの」が好きですと言いながら、実際に作っているものは既存の作品群をただ切り貼りしただけに過ぎないものを作り出す人がたまにいる。

王道もの(と呼ばれるもの)の本質的な骨格を模倣し自分なりの解釈でもって再構成するのではなく、その具体的な形で表出される部分、パーツだけを真似ているからだ。

 

・オマージュという言葉に対する誤解について

オタクの人が自主制作した作品でたまに見られるのが、作品の流れや文脈、意図とは関係ないオマージュだ。分かる人にだけ分かればいい、クスッともらえばいいといったサービス精神や少しだけ衒学的な内輪向けの遊び心から気を利かせたつもりかもしれないが、作品の流れや意図と自然に結びつかなければ、その符牒の意味を解している人間からしても自分の趣味をひけらかす以外には意味を持たないものでしかないと捉えられ、ただただ鼻につくなあと思われるだけなのではないか。

いやむしろ、たちが悪いのはオマージュという言葉で思考停止しているだけということに気づかないことかもしれない。既存のコードを踏まえた上で、それに対して自分で新たな解釈や表現の可能性を考えることをせず、それまでの既存のコードや記号をなんのひねりもなく丸パクリしていることを結果的に「オマージュ」という言葉で(故意ではないものの)結果的に正当化させている。

オマージュをするならするで、①流れに沿っていること(例えばパロディ秒屋としての笑いを提供するため等)②意図が明確に見えること(ペダンティックな自己満足以外の意図で)の2つを注意するべきだ。

 

私がコント漫才を好きになれない理由の考察

私はお笑いが好きではないと思っていたが、実はそうではなく、お笑いと言うよりもその中の下位ジャンルに当たるコント漫才が好きではないのかもしれない。

通常漫才は舞台上ではボケとツッコミに分かれて演じられるが、ツッコミ側が冒頭でボケが提案するコントに乗っかるという点、そして更にパントマイムに付き合うという点に私は違和感を持ってしまうからだろうと自己分析した。

付け加えて言えば例えばコント漫才において、コンビニの自動ドアの開閉を模した動作などは嫌気が差すほど見たものであるが(同時に薄ら寒い印象を抱かせるが、その動作を行うことに対して恥じらいなどの感情をなんとも思わないのはどうかと思うがそれは置いといて)もはや演者と観客との間にある一つの共通認識が成立していると思っていてそれに甘んじているように見えるところが、コント漫才に対して違和感を感じてしまう理由なのだろう。また、日常生活でコント漫才の導入における、「俺、◯◯に憧れてんだよねー練習させてくれない?」から2人で実際にパントマイムで練習を始めるなんてやりとりは現実の生活ではなかなか見られない。長くなったがまとめると、コント漫才の構造自体にも言及してツッコんでほしいということだ。

学生の漫才を見たことがあるが、やはりプロの漫才とは違うものがある。ツッコミの人間が目立とうとしたりボケ以上の爪痕を残そうとするところも印象的だ。

とりわけよく見受けられるのは漫才の途中でいきなりツッコミの人間がボケの人が言うことに乗っかったり、更にはノリだすことだ。ツッコミの人がボケに乗ったり、ボケ出す事自体が悪いとは言わないが、何もなしに行うと漫才における整合性が取れなくなって破綻するので、ワンクッションとしての一言をおいてからやってほしい。そういう漫才におけるツッコミ役のキャラクターの破綻に対して、「いや、これが漫才だから」といった、漫才のコードでごまかそうとする態度には共感できない。

漫才におけるコントに乗るんだったら先に「えー、なんでだよ、やだよ」「お願い!」といったやりとりを形式上入れたほうがいいと思う。それかおぎやはぎサンドウィッチマンみたいにネタ作成者のご都合主義なコント漫才の導入を茶化すようなメタ的な導入とか。ツッコミの人が整合性を保ちながらボケたかったら、自分で自分の言ったことにツッコめばいいと思う。

 

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『ヤジと民主主義~小さな自由が排除された先に~』感想

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街中で「安倍ヤメロ」と書かれたプラカードを持った人たちを見てもふーん、やってるなあというくらいしか思っていなかったが、この動画を観て少し印象が変わった。

「異なる意見にも寛容であれ」という言葉は、その言葉自体に矛盾が内在しているのであまり使いたくない。「異なる意見を尊重したほうが自分にとってもためになる」と言うほうがいいのかなと思う。

この動画の最後のくだりで、安倍晋三に対する抗議している人達が警察に囲まれているシーンは印象的だった。「誰も私達を助けようとしない」と漏らしていた。私がその場にいてもやっぱり傍観するか、見ていないふりをするか、それとも認識しないか…どちらにせよ助けなかったと思う。悪気があって無視するのではなく、単純に他者の気持ちに対する共感力や想像力、社会に対する責任感、そして勇気というものが欠けているのだろう。