2020/04/17 日本における英語学習についてかんがえたこと

睡眠時間をしっかりとることと食べすぎないことに気をつけながら生活していくことを心がけたい。

眠気と胃もたれの感覚は嫌いだ。

 

 日本人に英語を話せない人が多い理由(そもそもにおいて「話す」という言葉について様々な解釈が可能だが)は、そもそも日本人が英語を学ぶ動機付けや需要が少ないということがあるだろう。日本は(今のところは)内需で回ってきた国なので、一部の人間だけが英語を話せれば問題ない。ただ、英語学習を義務教育課程である中学入学段階の12歳から初めた割には流暢に喋れる人間が予想以上に少ないというのは事実で、その要因には他にも理由があるだろう。よく言われている意見として、学校教育で学ぶ英語は実用性が無い、加えて英語が単純に学生の学業成績の良し悪しを見分けるためのツールになっているというものがある。

 

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おおむね上の動画に同意する。付け加えて、学校で学ぶ英語と実用的な英語との乖離が著しい。英語にも日本語にもどの言語にも当てはまることであるが、◯◯語(◯には国名が入る)の下位ジャンルとして様々な言語が存在する。例えば話し言葉、書き言葉、スラング、死語、若者言葉、老人がよく使う言葉遣い、方言、学術用語、特定の状況でよく使われる言葉、ネイティブがその意味を知っているけど日常生活では全くと言っていいほど使われない言葉……などなど。或る大きな円の中に、ぼんやりとした輪郭を持った円が重なり合っているイラストを想像してもらえるとわかりやすいだろう。学校の英語はその中の一つに過ぎない。だから「中学英語をしっかり学んでおけばそれだけで英語は十分」みたいな言説には騙されてはいけない。そして強調しておきたいが学校で教わる英語と、大学受験の英語は微妙に重なるところもあるが別物であると言っていいだろう。だから「高校の勉強をしっかりしておけば大学受験も大丈夫」という言葉に惑わされてはいけない。

 英語を喋れる日本人が少ない理由として、そもそも英語の勉強の質と量が絶対的に少ないと言われるが、確かにそれもあるだろう(「英語を喋れる」という言葉の解釈がネイティブとそつなく会話できるというレベルだったら、中高の義務教育過程の中では圧倒的に達成できない無茶な要求だ)。

 関係ないが往々にしてよく聞く、「量より質」と言うような、量と質を二項対立の構図にしておいて、質のほうが大事なんだという言説には全く同意できない。そもそも「質」の客観的な定義ってなんなんだ?というツッコミは置いといて量と質は対立するものではなく、分けられるものではないと思っている。こういった考えが勉強における金科玉条定言命法的に広まるのは受験勉強の功罪かもしれない。確かに受験勉強であればある参考書を何回も何回も復習して、参考書の内容を丸々自分の頭にインプットしようとする作業が有効だがそれがあらゆる勉強に通用するとは限らない。また、その言葉が独り歩きして、勝手な解釈で、往々にして質も量も伴っていない人が他人を否定し自分自身を正当化する方便に使われることがあるのも問題だ。

 強引な一般化を承知で言うと、日本人はこれまでの教育において、或る決められた特定の課題を達成するということを重視してきたが、与えられた課題や目標が果たして妥当かどうか精査すること、そして自ら課題や目標を設定するということは重視してこなかったのかもしれない。英語も課題達成能力を測る指標をして利用されているといった現状で、その構造を強化するように受験制度や検定試験(検定制度自体が悪いとは言っていないが、日本の英語検定は実用性から少しズレていると言わざるを得ない。実用か的実用的とうるさい、一見無駄に思えるものをやることが後々になって自分のタメになることがある、と考える人もいるかも知れないが、それは何でもかんでも正当化できる魔法の方便だ)が存在し、それら対策のための参考書というものがたくさん発行されている状況だ。

 日本語をそれなりに流暢に喋れる外国人が学習者の比率に対して多いのは、大抵の国では本格的な日本語カリキュラムが大学から始まり、日本の学校のように生徒の学習成績を測る指標として積極的に使われていないという要因があるかもしれない。ではどうすればいいのか?英検を撤廃すればいいのか!?中高で英語を教えなければ日本人は英語を喋れる人間が増えるのか!?といった極端な意見も出るかもしれないが、私としては義務教育で教える英語をもう少し(基本的で)実践的で実用的な内容に改訂すればいいと思う。

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日本において日本人が英語を学ぶ差し迫った必要性が低い→英語教育が実用性重視よりは生徒の学業成績・態度を測るための指標の一つになりかわる→なので学校英語を真面目に勉強している人でもそもそも学校英語自体が実用的ではないため、ネイティブの生きた英語に接したときなかなかうまく適応できない?

或いは、昔の英語教育が伝統的に書き言葉の読解重視、もしくは大学・大学院での学術論文読解の準備段階を想定していた?

・日本人が英語が苦手と言われる要因

①英語は日本語話者から見ると文法・語彙面において多くの違いが見られ、日本人にとっては習得が難しい言語であること

②英語を喋らなくても問題なく暮らせる環境(社会的要因)

③教育制度上の問題

 

日本人が英語が苦手、喋れないと言われる問題については、いろいろな人の考察を聞くよりは日本の英語教育の歴史の新書かなんかを探して読んだほうが正解に早くたどり着けるだろう。

(書き途中)

『嫌われる勇気』という本が流行する時代状況について

アドラー心理学はインチキ疑似科学という話は聞いていたが、どういう内容なのかはよく知らなかった。最近その中身を知った。

内容については面倒なので触れない。色々アドラー心理学批判の言説がネットにあるからそれで十分だと思う。

自分が考えたのが、『嫌われる勇気』が現代日本社会で流行するのは、今の新自由主義、自己責任社会、他者に迷惑をかけてはいけないという社会の風潮と合致するんだろうな、ということだ。胡散臭い経営者から支持されるのも分かる。彼らはそんな競争社会を勝ち抜いてきた人たちだからだ。ホリエモンのように紆余曲折ありながらものし上がってきた人間には尚更相性が良いんだろう。わたしは彼らのようにアドラー心理学を信じられるような優秀な人間では無いし、また、一切の疑問を持たずすべてを飲み込むほどの素直さもないようだ。

アドラー心理学は科学的根拠の無い個人の思想だ(続編の『幸せになる勇気』でアドラー心理学は一つの哲学です、みたいなことを言っているらしい。だとするとどの哲学の流れを汲んでいるのだろうか?)。科学的根拠が無いからといってじゃあアドラー心理学がダメな代物かというとそういう訳ではないが、少なくとも科学的根拠に立脚していないのであればもはや現代では心理学という看板を掲げ続けるべきではないだろう。えらいてんちょうはなんかの動画で「現代の新興宗教は宗教の皮を被らない」と言っていたのを思い出す。なるほど。大昔の心理学勃興期の或る一つの考え方が現代になってなぜか独り歩きしているんだな。宗教だからといってダメだというのは短絡的だろう。しかしこれからの時代、もっともっと社会は苦しくなるはずだ。平成は振り返ってみると停滞の時代であったといえるが、これからの令和は平成以上の苦境が行く先に待ち構えているだろう。椅子取りゲームの椅子は更に少なくなってくる。そんなときに、この思想は果たして社会にとって有用なのだろうか?社会の空気に合っているだろうか?

2020/04/11 

 

最近腰が痛い。あまり認識しないようにしていたがもう認ようと思う。

ベッドを買いたいと前の記事で書いたが、時間をおいて考えたらそんなに要らないということに気がついた。

なにか人が発言したとき、「お前が言うな」とか「お前に言う資格があるのか?」とか言って黙らせようとすることはしたくない。それは、「喋る資格がある人」と「喋る資格がない人」というものを作り出し、恣意的な解釈によって勝手に人を「喋る資格がない人」という箱に放り込んで。勝手に喋る自由を認めず。それどころか黙らせようとする行為だ。どんな人間にも喋るという行為をできる権利があって、それを積極的に認めていったほうが社会としては良いと思っている。しかしそれは当たり前だが誰もが誰も喋るその内実が正しい、何を言ってもそれぞれ正しいということではない。「喋る」という行為自体を否定するのは良くないといっているのであって、喋る内容自体については各々正しいとか間違っているとか思ったらその都度その内容自体を批判すればいい。ただし、喋るor批判するという行為自体を否定してはいけないということだ(もちろん批判と中傷や暴言、個人攻撃を区別しなければならない)。

なぜか。その論法の問題を挙げると、

①解釈の自由に関連して。そもそも恣意的な解釈によってこの人は喋る権利がないとレッテルを貼っているので、解釈を好き勝手に弄くれば誰もが誰も喋ることをできなくすることが可能だから。

②自己言及性について。他人に対して好き勝手な理屈を持ち出して喋る権利がないと言うとき、その理屈が本人にも適用されるがそれは前述の通り解釈自由なものなので(また、多くの人間は人間性と言動が生まれてから死ぬまでずっと一致させることが出来るほど完璧な人間ばかりではないので)、主体本人も喋れなくなるから(ウィトゲンシュタインの有名な発言もその類だ。これによってウィトゲンシュタインは黙るしかなくなった。まあ、往々にしてそのように他人に対して偉そうに「お前は黙れ」という人間はウィトゲンシュタインとは違い、その理屈は自分自身に適用されるとは想像していないのでは?と思われる)。そしてその理屈は、批判する人間を批判する人間にも適用されるし、そ批判する人間を批判する人間を批判する人間にも適用される。そしてまた批判する人間を…、きりがない。結局最後は誰も喋れなくなってしまう。

③その論法は論点ずらしであるから。

ヴォルテールの言葉で、私は君に反対だけど君の発言の権利は死んでも守る、みたいな言葉があったが、私はそういった相手の発言の自由を思いやる精神を大事にしたい。なぜなら回り回ってそれが自分のためになるから。他人に黙れというからには自分も黙らざるを得なくなってしまう、そのことは避けたいからだ。

まあ、こんなこと本当は基本中の基本だと思うんだけどね(偉そうに言ってスミマセン)。

2020/03/25 単語帳について

この日記を書くまでに多くの期間が空いたのは、めんどくさがったことと、はてなブログの立ち上がりが遅かったという理由があるだろう。

何についても言えることだが物事のハードルが上がると、それだけで億劫になってしまう。相変わらず、備忘録として、そして考えるために書く習慣をつけたい。

 

・最近考えていること

ソファにもなるベッドを買いたい。ソファベッドのような大層なものでなくてもいいのだけれど。家にいると椅子に座っているのもだるくなってすぐに横になりたくなるが、布団に入ったら最後そこから出られなくなってしまうので。ある程度の高さがあって、ひと休憩つくのに役に立ちそうなベッドがほしい。

自転車も買いたいものだが駐輪場が問題なので保留。

最近は柄にもなく語学勉強を続けている。3月という節目の時期なので物事の終わりを意識して柄にもなく頑張れているのだろうか。それ以外にも、要因はあると思っていて、短期間のうちに取り組もうという意識があるからなのかもしれない。一年間毎日勉強するよりは、一ヶ月とか三ヶ月スパンで集中的にダーッと密度を上げて取り組むほうが続くのかもしれない。語学勉強をしたところでって話なんだけどね。

今取り組んでいるのがキクタン中国語上級編で、この本は自分が気に入っている単語帳だ。

これまでいろいろな参考書に手を付けては挫折するの繰り返しだったので、これまで自分がやってきた参考書を中国語に絞って振り返る。

 

本間史人『真剣に続ける人の中国語教本』シリーズ

いいところ…ちょうどいいサイズ、CD付属、文のすぐ近くにピンインが付いている

わるいところ…短文読み上げ音声が入ったCDがあるが、中国語ネイティブが文章を読み上げた後、少しの間がある。たぶんこの参考書を使う学習者がネイティブの読み上げの後に続いて音読させるための間なのだろうが、長い上毎回あるのでうざったくなってしまう。シャドーイングで十分だと思うので、間がなければ(もしくは少なければ)最高だった。

自分が中国語初学者におすすめしたい参考書をあげるとするならばこれが無難な気がする。参考書内の短文を読み上げながら文法や単語を覚えられるのでお得感がある。英語の参考書で例えれば、内容が薄めのDUOといったところ。

 

津田量『聴読中国語』

DUOを参考にした中国語の参考書。

いいところ…ボリュームたっぷり。コストパフォーマンス最高。

わるいところ…活字が小さい。見開き左ページに中国語長文、右ページにその日本語訳があってその次のページに単語の語釈があるが、内容を削ってでもいいから1つのページにまとめてほしかった。ピンインがついてればなお良かった。

これはとりあえず買っておいて損が無い本。でも文法の説明が乏しいので、初学者はこれ単独では厳しいかな。内容が小さいサイズの本にびっしり詰まっている。いや、つまりすぎているといってもいいだろう。2冊に分けて出してもいいくらいだ。でも、良心的な参考書。

 

王丹『中国語単語スピードマスター中級3000』

いいところ…コスパ良し。小さすぎず、個人的にはいいサイズ。

わるいところ…多くの単語に短文がついているが、付属のCDでいちいちその短文を読み上げてくれるのがうざったい。単語の読み上げで十分。短文がついているのはスゴイありがたくて、確かに「この単語どういう文脈で使われているのかなあ?」って疑問に思ったときに短文があると理解と定着に役に立つのはいろいろな所で言われているとおりだけど、それを読み上げなくてもいいと思う。学習のテンポが悪くなる。

まあまあ良い単語帳と言ったところ。

2019/11/30

・最近感じたこと

岡本真帆の短歌のセンスの良さ。

評価軸、もしくは価値観、芯と呼ぶべきものは一つじゃなくてもいいこと。むしろ2つ持ち、状況に合わせて使い分けることが役に立つ。

https://www.bilibili.com/video/av40460659?from=search&seid=14279847244507524046

https://www.bilibili.com/video/av42440088?from=search&seid=16224792596301338411

しくじり先生タイムマシーン3号の回を見たときに、彼らはオンバトで好成績を収めるために特化した漫才をした、一般層に嫌われないような幅広く支持が貰えるような漫才を突き詰めたことがだめだった(本来の目的を見失い、手段と目的を取り違えた)ということを中心に序盤は語り始めていたが、終盤になって同様の漫才を突き詰めているノンスタイルのように、自分たちのやり方を変えなければよかったという主張に変わってきている。それに対して私は、ん?主張がブレているな?と感じた。

彼らは思考の前提として自分たちの漫才のスタイルは1つに絞らなければいけないという固定観念があるが、私はそうは思わない。

より多くの人たちからの支持を正義とする民主主義的な価値観に基づく、普遍的な方向へと向かう価値観も持っていていいと思うし、同時に自己の価値観に基づく、内向きでややもすれば自己満足的とも捉えかねられない危険性を孕む評価軸も持っていていいと思う。そしてそれらを状況に合わせて使い分けることが大事だ。人間は多面的な顔を持っており、いついかなる時でも人間は一貫的な行動をとらなければならないというわけではないのだから。

 

好きでやっていることなのにこれ楽しくないなあ、向いていないなあと思うときがある。その行為自体が面白くないのではなく、そもそも自分自身のやっていることが、やり方が面白くないとわかっていながらいやいややっているからだという可能性がある。前提の思考を見つめ、解体することで楽しくすることができるはずだ。

これは楽しくないなあと感じたら、なぜ自分は楽しくないのかということを考えるとよい。答えは自分自身にあるのだから探し出しやすい。

 

 

・やりたいこと

伝統料理を作っている様子を動画にしたい。

他人の個人的な昔話を録音したい。

簡単な感じでいいのでいつか楽曲分析したい。

何回も言っているが、完璧を目指そうとしてはならないし、できない。完璧なものは頭の中、もしくはイデア界にしかない。

だんだんと完成度を上げていけばいい。

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2019/10/14

フリーの動画編集ソフトをインストールした。

filmora.wondershare.jp

filmora.wondershare.jp

あと他にもインストールした。

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ここにきて脱ダム宣言という単語が左翼批判の材料として文脈を切り取られて使われている。偶然群馬県が対比的に見えることから群馬県を引き合いに出して批判している。

脱ダム宣言というのは単純な公共事業害悪論ではなく、良く理解するためには長野オリンピックについてを勉強することが役に立つ。

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2019/09/03

最近は離れていたが、久々にフランス語の勉強をした。充実感はそこそこある。

ダンベル何キロ持てる?』というアニメを見た。アニメ特有のデフォルメが苦手であまり見てなかったがこれは自分の趣味にあっていたので面白かった。筋トレも最近は離れていたがぼちぼち続けようと思う。一気に炎がついたように始めると、燃え尽き症候群になりそうだからほそぼそと行う。上半身、腹筋・柔軟、下半身の日というのを設けて行こう。

なんにしても思ったこと、考えたことを自分なりに言語化し、アウトプットするという作業が成長のためには有効なのではないか。そういった積み重ねが大事だ。アウトプットしなければ、私は記憶力が悪いのですぐに忘れてしまうだろう。