2020/04/11 

 

最近腰が痛い。あまり認識しないようにしていたがもう認ようと思う。

ベッドを買いたいと前の記事で書いたが、時間をおいて考えたらそんなに要らないということに気がついた。

なにか人が発言したとき、「お前が言うな」とか「お前に言う資格があるのか?」とか言って黙らせようとすることはしたくない。それは、「喋る資格がある人」と「喋る資格がない人」というものを作り出し、恣意的な解釈によって勝手に人を「喋る資格がない人」という箱に放り込んで。勝手に喋る自由を認めず。それどころか黙らせようとする行為だ。どんな人間にも喋るという行為をできる権利があって、それを積極的に認めていったほうが社会としては良いと思っている。しかしそれは当たり前だが誰もが誰も喋るその内実が正しい、何を言ってもそれぞれ正しいということではない。「喋る」という行為自体を否定するのは良くないといっているのであって、喋る内容自体については各々正しいとか間違っているとか思ったらその都度その内容自体を批判すればいい。ただし、喋るor批判するという行為自体を否定してはいけないということだ(もちろん批判と中傷や暴言、個人攻撃を区別しなければならない)。

なぜか。その論法の問題を挙げると、

①解釈の自由に関連して。そもそも恣意的な解釈によってこの人は喋る権利がないとレッテルを貼っているので、解釈を好き勝手に弄くれば誰もが誰も喋ることをできなくすることが可能だから。

②自己言及性について。他人に対して好き勝手な理屈を持ち出して喋る権利がないと言うとき、その理屈が本人にも適用されるがそれは前述の通り解釈自由なものなので(また、多くの人間は人間性と言動が生まれてから死ぬまでずっと一致させることが出来るほど完璧な人間ばかりではないので)、主体本人も喋れなくなるから(ウィトゲンシュタインの有名な発言もその類だ。これによってウィトゲンシュタインは黙るしかなくなった。まあ、往々にしてそのように他人に対して偉そうに「お前は黙れ」という人間はウィトゲンシュタインとは違い、その理屈は自分自身に適用されるとは想像していないのでは?と思われる)。そしてその理屈は、批判する人間を批判する人間にも適用されるし、そ批判する人間を批判する人間を批判する人間にも適用される。そしてまた批判する人間を…、きりがない。結局最後は誰も喋れなくなってしまう。

③その論法は論点ずらしであるから。

ヴォルテールの言葉で、私は君に反対だけど君の発言の権利は死んでも守る、みたいな言葉があったが、私はそういった相手の発言の自由を思いやる精神を大事にしたい。なぜなら回り回ってそれが自分のためになるから。他人に黙れというからには自分も黙らざるを得なくなってしまう、そのことは避けたいからだ。

まあ、こんなこと本当は基本中の基本だと思うんだけどね(偉そうに言ってスミマセン)。