2019/05/29 小雨
最近は歩くことが多い。意識的に歩いているわけではないが、運動をすると気分が良くなる気がする。
図書館の自習室に居ると、あまりにも静かすぎて叫びたくなってくる。
男性用ブラジャー発売のニュースを聞いた時、こんなもの買う奴はきっと変態だなと思ったものだが、不健康がたたった結果ついにその意図が理解できるようになってしまった。買わないけど。
最近の人達は軟弱で……とか、最近は残虐な犯罪がこれまでになく多発している……とかいうような現代に対する見方は強引だ。
現代テクノロジーに対する、もはや反射とまで言うことができるほどの、感情に基づいた拒否反応に対して。テクノロジーは道具に過ぎず、それを使う側である人間の問題であるということはずっと前から叫ばれてきたものであるのに今でもこのようなことを書くとは。うんざりだ。うんざりだが、なぜそのようなことを言う人がいるのか。それは人が言っていたこと、テレビでコメンテーターが言っていたことをさも自分の意見のように言うからだろう。当人はそのような自覚さえない。
ある出来事を、一般化してその時代について語ることはで出来ないみたいなことを書いていた人が居たような……そもそも私の記憶が定かでないので内容が正しいかわからない。資料を探したり、ネットで検索したけれどもわからない。アメリカ人かフランス人の批評家か学者だった。
大学の学部授業において比較文化の発表でよく見られたのは、日本文化、日本社会の強引な一般化、そして外国の文化、外国の社会の強引な一般化、そしてその2つの文化の比較だった。私は比較文化に向いていないのかな?と常々感じていた。そもそも私は本物の比較文化の発表を知らない。
企画発表で学生が「〇〇ということについて調べるのはこれまでなく、斬新ではないでしょうか」という事を言う場合、九分九厘単なる勉強不足だ。
私の卒論は本当にひどいもので、新しいことを言おうとする気概はあるが、創造的な発想などはもちろんなく、先人の手垢にまみれた独善的なよくある「イタい」卒論だった。
個人的には、人はみなある種の快楽主義者であり、生理的、本能的な快楽追求に基づいた行動をしながら生きていると考えている。ここでは快楽を快適と言い換えてもいいだろう。人はその都度臨機応変にいろいろな要素を考慮しつつその人にとって最良と思われる総合的な判断を瞬間的にやってのける。そういった怜悧な判断に基づく行為の積み重ねによって現在の状況に至っている。と、前提するならば、人はみな自分の状況に満足はしているとまでは言わないものの、自分の置かれている状況にそれなりに納得しているはずだ。しかし、実際はそうではない。なぜか。
理由
目的を達成させるためには行為の積み重ねが必要だ。目的には上位の目的と(相対的に)下位の目的がある。それは相対的なものであり、上位の目的の上にさらなる上位の目的がある場合は、前者は比較的に下位の目的になる。上位の目的から見ると、下位の目的は上位の目的を達成させるための手段である。
目的ー目的(目的達成のための手段)ー目的(目的達成のための手段を達成するための手段)
現状にそれなりに納得していない人がいるのはなぜか理由について考えた。
①大きな目標を達成させるための、手段としての前者と比較して小さな目標の建て方が正しくない。もしくは、いつのまにか手段と目的取り違えられている
このことは、手段と目的を取り違えないように心に留めておくこと、つまり、何が目的で何がそのための手段かを忘れないことが大事だ。そのために「これは何のため?」と自問自答することが大事だ。(紙にペンで書きながら考えると良い。私は2ケタの数字同士の計算は紙の上でペン片手に筆算しないと計算出来ない。それが私の頭の限界だ。もちろん計算能力とものを考える能力は別物だが)
そして、目的を達成ための手段はたくさんあることを忘れてはいけない。人はいつの間にか、無意識に前提を作ってしまい、目的達成のためのいいアイデアを無意識的に、出来ないとして頭の片隅から除外しがちだ。
また、様々な手段の中からいいアイデアを比較することを忘れがちだ。アイデアを選ぶ際の基準は、目標を達成するためにどれが自分の一番役に立つだろうか?という基準で考える。
②手段と行為をつなぐ接続ができていない、結びつけが不十分
手段と行為をつなぐ接続ができていない、もしくはその接続の結びつけが不十分なので、「こんなことして何のためになるのだろうか?」と考え、やる気が起きないのだ。その場合は手段の建て方自体が正しくない可能性を考える。もし手段が正しくても、想像することが難しい場合(結びつけ)、これをしたら、こうなって、結果こうこうなると具体的に頭の中で描く事が大事だ。描けないのならば、やはり別の手段の可能性を考える、
上のは、目的を達成させるための手段についての考察だ。
③上位の目的自体の建て方が間違っている。
これは目的自体についての考察だ。目的と手段は相対的なもので、より上位の目的が存在する時、目的は手段でもあるとは上記のとおりだ。
目的自体がそれ自体が自分にとって正しいかどうか考えないといけない。防ぎ方は、目的と手段の転倒を防ぐための方法と同じで、「これは何のため?」と自問自答することが役に立つ。しかし、目的と手段は相対的なものなので、目的の更に上位の目的を問い続けると、いくらでも後退し続けてしまう。何のために生きるのか?何をしたいのか?そのようなものを問い続けても答えは出ない。(答えを探そうとする態度はポストモダン以前の、真理を探求するという哲学の態度の残滓だ。神が反証可能性を持たない、語り得ぬものであるように、真理というものもまた語り得ぬものであることがわかった現代では、もはや信仰に立脚しながら生きるしかない。ここでの信仰とは創唱宗教、自然宗教、そして科学信仰、無宗教、自分なりの信条も含まれる。真理(正誤とも押し広げて解釈できる)がないということなのだから、そういった自分の信仰に従いながらある目的についてどの手段が有効であるか?ということについて考えていく他ないのだ)
そういった永遠に答えが出ないであろう問題に対して路頭に迷い、虚無感を感じる必要はない。そのような目的の後退が続くときは、人間は快楽(快適)を得るために生きているということに立ち戻れば良い。
快楽(快適)とは、心か身体もしくは心身で感じる幸福、きもちよさ、ここちよさのことだ。何が快で何が快でないかといった判断基準は心身と直接結びついており判断が用意である。(快の中には不快も含まれる時がある。そういった場合、目的と手段と行為の結びつきが強ければ矛盾しない。ときには快として認識できない不快なことも必要性を理解しつつしぶしぶやらなければいけないときがある。これは人が「理解」したと言おう。しかし、そういったことは極力減らすべきだ。それを防ぐためには、やはり頭の中の前提について意識し、疑おう)。
つまり、快楽(快適)を味わうという最大の目的を意識しながら、その都度手段を考え、選び取っていけばいい。その際に、自分にとって「何が」心地よいのかということについて考えることは大事なことだ。しかし、だからといって自分が幸せになるためだったらなんでも自由にしていいというわけではない。自分の富を増やすために強盗してもいいという訳ではないということは明白だ。手段について考える時に同時に、「自分のしていることはおてんとうさまに恥ずかしくないものか?」ということを自問自答しなければならない。