フラの考察、娯楽を目的とした創作物のメッセージ性についての覚え書き

フラの考察(情報伝達を目的とした創作物のフラについての覚え書き)

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NHKの語学講座が好きだった。とりわけ國枝孝弘とパトリスルロワが出演していた頃のフランス語講座が面白くて好きだった。なぜなのかについての考察。

創作者の純粋な自己表現とは区別されるべき創作物(例えば、小学校や公民館で流される交通ルールやタバコの害を説明する学習資料映像)が好きだった。おかしみ(諧謔)があった。そのような創作者の純粋な自己表現とは区別されるべき創作物、つまり情報を伝えるためだけに作られた創作物(広告、学習のための映像資料)からはフラ(もしくはおかしみ)を純粋に感じることが出来たのではないか。その創作目的、意図、語り口が真面目で純粋であればあるほどにフラを感じることが容易になるのではないか。いや、裏笑いかもしれない。裏笑いとフラは分けられるべきである。もうすこしこのことについて考える必要がある。

 

 

娯楽を目的とした創作物のメッセージ性についての覚え書き

メッセージ性とは鑑賞者が勝手に受け取るものだ。作者側が創作物には必ずメッセージ性が無くてはならないという強迫神経症的な前提を持つ必要はない。

メッセージ性が全面に出ている作品はうざったいものだ。押し付けがましく、また、作者の言いたいことに照らして考えれば、後々のストーリー展開が容易にできてしまう。

もちろん、作品に一貫するテーマはあったほうがいい。その方が創作者側は作品を作る際の取っ掛かりができるし、鑑賞者側もどのようにこの作品を見ればいいのかという姿勢を作るほうができるからだ。

テーマとメッセージ性は区別しなければならない。メッセージ性を持っているということが悪いというわけではなく、メッセージ性を全面に出しているということが悪いのだ。創作者がまず第一に優先するべきなのは面白さの追求であって、メッセージ性はその次だ。そもそも、伝えたいことがあるのなら、創作物という形を取らなくてもいいだろう。よく言われる話だが、そんな事するくらいなら、メッセージを書いたプラカードを携えて、メッセージを書いた画用紙に持ちながら歩けばいいだけだ。

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オッペケペー節が明治時代の人に好まれたのも、伝えたいメッセージの内容が好まれたという以前にその調子が好まれたというのが要因としてあげられるのではないか。

日本の音楽産業の世界において、メッセージ性よりも面白さを優先しなければいけないということを分かっていない人が多い気がする(強引な一般化を前提とする語りではあるが)。どんなに良いことを言っていたとしても、それが濃密な内容だとしても、面白くなければそっぽを向けられるだけだ。それで、自分たちが受け入れられないのは日本は社会的な政治的な事柄について語る土壌が無いためだなどというのはずれている。実際確かに日本にはそのような土壌はあまり無いのかなと思えるが。