2019/05/11 塩素消毒剤を買った

頭痛がひどくてろくに眠れなかったのでバファリンを飲んだ。バファリンを飲んだのは久しぶりだ。賞味期限が2月の烏龍茶のティーパックを使ってお茶を飲んだせいかもしれない。烏龍茶の箱は惜しいが思い切って捨てた。瓶に付着した茶渋が気になったので塩素消毒剤を買った。

最近買いたい物

Fire10(15,000円ほど)、SSD(1TBで14,000ほど?)、エアロバイク(17,000ほど)、冷蔵庫(中古で上限18,000)だ。

買う優先順位について考えた。①冷蔵庫、②Fire10③SSD④エアロバイクだ。

冷蔵庫を買いたい理由は、①作り置きをして料理に費やす時間を減らしたい。②買いだめをして買い物に費やす時間を減らしたいからだ。

Fire10は必要という訳ではないが、あったらありがたいもの。パソコンのハードディスクが壊れてしまったため本来はSSDを買うほうがタブレット端末を買うより優先順位が高いはずだった。しかし、SSDは夏にまた値下がりするということなので、1TB1万円ほどになるまで待とうかなと考えている。とはいえ、パソコンが使えなく、今はサブのパソコンで凌いでいる状態でこのあたりの優先順位はひっくり返るかもしれない。

エアロバイクは、ただ椅子に座って動画を見ているのはもったいないと思ったので、ながらでなにかできないものかと考えたらエアロバイクが思いついた次第。中古で買うことも視野に入れる。

自分の考えに対して自身を持っていないが、まあこれでいいのかなと思う。思うしかないのかな。

いくら調べ、考え尽くしても物事を完全に予測できることは出来ないのだと自覚することの効用

中途半端に頭がいい人間ほど評論家のように批評眼ばかり肥え、実践的な行動がとれなくなってしまうのは、完璧を求めているからなのではないか?例えばあることに挑戦しようと考えた時、計画を考えるものだが、結局どう頑張っても完璧に物事の成否を分かり得ない。絶対成功するということは絶対に言えないからだ。どんなに計画を立ててもそのとおりに事が進まないかもしれないという可能性は0%にできない。中途半端に頭がいい人間は、物事を100%分かり得るという前提を無意識に持っているのではないか。そしてそれが完璧に分かり得ない限り行動を自重すべきだと考えてしまうからではないか。もちろん考えなしの向こう見ずの蛮勇はもっての外であるが、徹底的に調べて考えに考え尽くしてもなお、物事を完璧に予想、予測することはできない、分かり得なということを知っていた方がより判断するときに助かるだろう。そういった不確定な要素に対して不安を持つのであれば、上手く行かなかったときの善後策を具体的に考え用意しておけばいい。

「頭の中にあるうちは、いつだってなんだって、傑作なんだよな」

創作においては少し語り口が異なる。創作者が頭の中に想像している理想像とは、私達がしっかり認知することができないような形而上学的な世界において存在する観念なのであり、概して抽象的なものでしかない。抽象的なものでしかないのだから往々にして完璧なのだ。完璧に思えてしまうのだ。なので、完璧なその頭の中にのみ存在するアイデアを現実世界に具体的な物としてアウトプットする過程において、「思っていたのとは違う」と理想と現実の乖離に悩むことはバカバカしい。

また、理想と、理想に届いていない現実の自分の現状とのギャップについて悩むことについても同様だ。「理想のジブン」というものは頭の中の抽象的な観念に過ぎないのだから、どう頑張っても到達し得ない。それでくよくよと悩むのはバカバカしい。抽象的な「理想のジブン」や「夢」というものを思い描くのは控えるべきだ。それよりも具体的な目標を立てることが大事だろう。往々に人間は自分のキャパシティを超えた目標を設定しがちなところがあるが、それについては今回は書かないでおこう。

また、「何になりたいか」ということよりも、「何がしたいか、何をしたいか」ということについて考えることが大事だ。この2つは全く違う。そのことについては以前ギターの例を述べながら記したはずなので省略する。

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今だとちょっとダサいように思えてしまうが、現在の80年代リバイバルの風潮とマッチしている気がする。厳密にはこの曲は79年のもの。キャッチーで印象に残る。

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これも好きというものではないが、最近耳に残るので。

自身の音楽を「トーキョー・ニュー・ミクスチャー・スタイル」としているらしい。またファーストアルバム名が「Tokyo Rendez-Vous」と、「東京」という単語が好きなのだなという印象。

あんまこんな事言いたくないんだけれど、田舎者に限って「東京」、「トーキョー」、「Tokyo」という言葉を使いたがる傾向が見える気がしてしまう。このキングヌーの場合だと海外の音楽に対して存在する日本の音楽という構図を想定していわゆる横文字の「トーキョー」、「Tokyo」を想定しているんだということは明白だ。自分たちの音楽を新しい言葉で定義する試みは非常に素晴らしいが、日本のロックというものは前述べたとおり、①文化的正当性②商業主義との葛藤において問題を抱えている(その点において、そういった問題を考慮しなくていい米津玄師は怖いものなしだなとつくづく思う)。

キングヌーはビジュアルはカッコいいし、「カッコよくある」ということに対して意識的にプロモーションされているが、メジャー化したセカオワが無線機パフォーマンスを芸人にパロディされてその神聖性があっけなく吹き飛んだように、キングヌーもメジャー化してやがてパロディされたら、タメがある分一気にクソダサいものに反転するだろう。

本当に、日本のロックはこういうサイクルの繰り返しに思える。歌謡曲やJ-POPとの差異を強調しながら一生懸命必死こいて気張って、カッコつけて売り出して一生懸命大衆にすり寄ってメジャーになったら、パロディ化されて一気にダサくなって一過性のものとして消費される。そうなることが大いに予想されるので、メジャーな方向へ志向しないで欲しいなと。一生懸命カッコつけないでほしいなと。

「トーキョー・ニュー・ミクスチャー・スタイル」なる単語が「J-POP」「ロック(日本国内におけるロック)」の流れを引き継ぎ、統合したものであるならばこれほど素晴らしいものはないのだが。