2019/05/17 反省

最近読書が捗らない。しかし試しに音読してみたら内容が少しは頭に入ってくるようになった。音読は悪くないなと思った。面倒だけど。

最近、特にこの自分のブログの存在について気にかかかっている。これまで書いてきた内容についてだ。私の文章など読む人はいないものと思って書いてきただけあって恥ずかしい文章ばかりかいてきたが、最近特に自分の書いてきた文章に対しての羞恥心に耐えられなくなってきたのだ。特に耐えられないのが、知識もないのにちょろっと哲学知識をひけらかすような文章だ。読んでいる人(いるのかわからないが)に、こいつ痛いなーとか、中途半端な知識で分かったように語るなと思われたらと想像すると赤面する思いだ。そういう自分自身の至らなさ、自己一貫性のなさに自覚はある(余談だが自覚はあるといった、表面上だけの分かったような態度の人こそ危ういし、世の中そのような人ばかり多いのではないか?と、最近思いはじめている)。しかし、やっぱり書くという行為はより良く生活するために役立つことだと思うので、自分の頭の中に居るヴァーチャル読者という架空の存在にびくびくしながらも飽きない限りは続けようと考えている次第です。

受験生のとき、藤沢令夫がフィロロゴスとミソロゴスという言葉についての説明を交えた評論を読んだことを思い出した。(『イデアと世界』だったか?)前者が言葉好き、後者が言葉嫌いということだが、藤沢はフィロロゴスになってはいけないが、かと言って反動的にミソロゴスになったまま留まってはいけないということを言っていた(と思う)。美辞麗句を弄する軽薄な人間になってはいけないが、だからといって反動形成的に寡黙で自閉的な人間にならないようにいようぜ!という要旨だったと思う。