4月11日

久しぶりに書きます。いつか書きたいなと思っていたことが前々から(一年位前)からあったのですが、長文になってしまうことが予測され、面倒だったので先延ばしにしてしまっていました。私の性格上、このままだといつまでたっても書かなさそうなので、不完全な、簡略な形でもいいので本当に簡単な概要を書こうと思います。

・書きたかったこと

J-POPの次に登場するであろう日本の音楽産業のメインに位置する新たな音楽ジャンルについての期待(タイトル)

①歌謡曲からJ-POPに移り変わるまでの流れ

②私が歌謡曲、J-POPのことを好きになれなかった理由

③私が歌謡曲、J-POPを好きになるようになった理由

 ③-①

 ③-②

④J-POPの次に登場するであろう新たな音楽ジャンルに対する期待(結び)

 

 

日本の武道について(タイトル)

①武道の問題点

②武道の歴史

③武道の問題点に対する私なりの提案

 

日本の武道についての文章の要旨について簡単に言うと、日本の武道は精神修養が掲げられているが、実態は伴っていない。武道関係者の不祥事が明るみになっている(武道人間形成神話の崩壊)し、同時に武道の「スポーツ化」が起きてしまっている。この2つの問題の構造的原因を武道の歴史をさかのぼり、紹介しながら明らかにする。この2つの問題の原因は、GHQによる禁止令を乗り越えるため、撃剣等を復活させるための「方便」として、それまで撃剣と呼ばれていたものに人間形成(道の概念)、伝統性を付加させて、なにやら高尚なものに見せようとした。そういった歴史的な背景が時代が経つほど忘れ去られ、独り歩きしてしまったというのが現状だ。そもそも武道なんかでは人間形成できないし、武道のスポーツ化も、「競技として、スポーツとしての成熟」と解釈すればすんなりと腑に落ちるだろう。武道は、スポーツに人間形成、伝統性をある種の方便として付加させたもので、武道はその点において、剣術・柔術等といった実践的な殺人術・護身術でもなければ、単純な娯楽としてのスポーツでもない非常に中途半端なものだ。では、今後武道はどのようになるべきか。現在進行系で動いている武道のスポーツ化の流れは留めることができないだろうし、昔ながらの殺人術・護身術を原理主義的に追求するということも実際問題難しいだろう。そもそも撃剣・柔術を復活させようとした動機は何だったのだろうか、究極的なことを言えば、撃剣・柔術が楽しかったからではないのか。それを復活されるために、あれこれともっともらしい理由をつけてしまったのがこのように武道が大きな遠回りをするはめになってしまった原因だろう。武道をスポーツに変えることは一見とても難しそうに見えて、実は難しくない。看板をすげ替えればいいだけだからだ。なぜなら、現代の武道はスポーツ化(競技としての成熟とも言いかえることができる)が進行し、そして人間形成が有名無実化し、もはや完全にスポーツになっているからだ。

https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4094&id=63939403

ユーザー17の意見と私は概ね同じだ。

 

今日やったことで特筆すべき事

・この文章を書くためにグーグル日本語入力をインストールした