BS世界のドキュメンタリー『ぼくがこの世界で生きる価値』

これは、脳性麻痺を患っているアジア系デンマーク人のヤコブが、自分の半生を土台にした劇を公演しようと奮闘する様子をドキュメンタリーにしたものだ。

自分は生きる価値があるのか?といったことについて考えることはバカバカしいことだと考えていて、そういったことを考えるのは中学生までに卒業するべきだと思っている。しかし、ヤコブにおいてはそういった自分自身に対する自問自答をせざるを得ない状況に置かれているのは間違いない。彼はデンマークにおいて、アジア系という点で、脳性麻痺患者という点で、二重に異端児であるからだ。その上彼は幼い頃に養子に出され、血の繋がりのない白人家庭で育てられている。否が応でも、自分自身について考えざるを得ない環境の中で育ってきた。

ヤコブが街に繰り出し、待ちゆく人たちに「異常」の定義を問うところから、このドキュメンタリーは始まる。「ぼくを見た人はぼくから逃げ出したくなるか、ぼくを殺したくなる衝動に駆られる」。そんな衝撃的なモノローグから始まるこのドキュメンタリーが「生命倫理」という一貫した重いテーマを扱っていながらも、緊張感に満ちていないのは、ヤコブの人柄にあるだろう。ヤコブはよく笑う人間で、外交的であり、内省にふけって、自分の世界に浸る人間ではないからだ。

自分の気持ちに対して正直に言うと、ヤコブに対してどこか他人事のように思ってしまう自分がいる。まあよくよく考えると、彼と私は元々文字通り他人であるが、それだけでないだろう。彼が特異な人間であることも要因としてある。ドキュメンタリー中から見受けられる、彼と私(それと健常者の日本人)に共通する点は、同じアジア人というところくらいだ。彼と私(たち)は違う方向を見ながら生きている。また、同じ世界に生きていながら、同じ世界に生きていない。いや、生きようとしないのではないか。このドキュメンタリーはそういった眼差しに気付かせる。

 

私たちはヤコブの生き方をそっくりそのまま真似て生きることはできない。逆もまた然りだ。なぜなら、ヤコブと私たちは異なっているからだ。つまり、片方は「正常」でもう片方は「異常」だからだ。もちろん「正常」、「異常」というものは容易に転倒しうるが。私(たち)とヤコブには共通点が少ない。そして、一括りにされた「私たち」も、それぞれ個別の人生を生きているので共通点が少ない。しかし、ドキュメンタリーの中でのヤコブの「自身の生に向き合って生きていこうとする態度・姿勢」を個別の私たちは見習うことはできる。この作品を、単なる「障害者も健常者も含めたみんながもっと生きやすい世の中にしていこう」といった障害者を扱った映像でありがちな、手垢にまみれた簡単な理解で終わらせてはもったいないだろう。

 

字幕の翻訳は、訳文特有のやや回りくどい表現が見受けられ、生き生きとした話し言葉のニュアンスが伝わってこない。一方、吹き替えについてはその逆で、デンマーク放送協会の人間がヤコブインターンシップを断る場面は、映像で見た限りだと、放送協会の人間はヤコブに対して、感情的にならず理知的に話すように努めているように私には見えたが、吹き替えではくだけたような(つまり、軽くナメたような)話し方をしていて違和感を覚えた。